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    ルルル文庫

    乙女なでしこ恋手帖 字のない恋文
    深山くのえ 画/藤間 麗

    借金の形として貸金業「大つき屋」の長男・(かなめ)と結婚した16歳の千鶴(ちづる)
    政略結婚の行く末は!?


    借金の形として貸金業「大つき屋」の長男・要と結婚した16歳の千鶴。
    無愛想だが優しい要に見守られつつ、一度は辞めた女学校にも戻れて幸せ……のはずが、何者かによって要の悪評が広められてしまい、友人達とぎくしゃくした雰囲気になってしまう。
    そんなある日、千鶴は自分の着物のたもとに投げ入れられた結び文を見つける。
    当初はいたずらかと思っていたが……!?
    たおやかだが芯の強い少女・千鶴と、無愛想だが実は誰よりも優しい青年・要の、政略結婚から始まる大正浪漫の香り高い恋物語、ルルル文庫に登場!
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  • 深山くのえ先生からのメッセージです!

    皆様、御無沙汰しております。深山です。このたび『乙女なでしこ恋手帖』新作発売にあたり、前巻ラストと新作冒頭まであいだのちょっとしたエピソード「六月九日、雨」を、期間限定公開させていただけることになりました。短いお話ですが、続編をお待ちいただいた皆様へのささやかなオマケとして、お楽しみいただければ幸いです。

『乙女なでしこ恋手帖』番外編 
六月九日、雨

 ……静かだなぁ。
 昼間だというのに薄暗い座敷で、千鶴(ちづる)は数学の教科書と帳面を広げたちゃぶ台に頬杖をつき、ぼんやりとガラス戸越しに庭を眺めていた。
 外は雨で、近所の子供たちが遊ぶ声も、物売りの声もしない。
 秀二郎は今日も家賃の集金まわりで、セツのほうも、この近くに住む独り暮らしの老婆の様子を見てくると言って、先ほど茶菓子持参で出かけてしまった。つまりお喋りをしに行ったようなもので、おそらく夕方まで戻らないだろう。
 そして、二階では(かなめ)が仕事をしている。
 家に二人きりだからといって、要に話し相手をしてもらう――ということは、できない。妻が仕事の邪魔をするわけにはいかないのだ。
 掃除や繕い物は朝のうちに済ませてしまった。この天気では洗濯もできず、夕飯の支度を始めるにも早すぎる時間だ。
 そんなわけで、千鶴は久しぶりに教科書を開き、自習していた。
 いろいろあって、ようやく要と結婚できた。女学校は途中で辞めることになってしまったものの、それは仕方ないと思っていたのだが、要が許可してくれて、再び女学校に通えるようになったのである。先日、無事に(おお)()()家への入籍が確認でき、女学校側にも退学を取り消してもらえたため、来週から復学することが決まっていた。
 およそ一か月、学校の勉強から離れていたことになる。いきなり授業に参加したところで、頭がついていくはずもない。それで自習をしていたわけだが――
「……」
 千鶴は何となく天井を見上げ、それから柱時計を見た。二時半過ぎ。
要が仕事をしているときには、いつも三時ごろに茶を淹れることにしている。今日は少し早いが、もう用意してしまおうか。
 余白のほうが多い帳面の上に鉛筆を転がして、千鶴は立ち上がった。
 ……やっぱり、他の教科から予習したほうがよかったかしら。
 湯を沸かしながら、千鶴はため息をつく。せっかく自習を始めても、いまいち気分が乗らないのは、いきなり苦手な数学から取りかかってしまったせいかもしれない。ここは国語か漢文から始めるべきだったか。
 そもそも自分は、それほど勉強ができるわけではない。できないわけでもないが、成績はいつも真ん中あたりで、小学校の教員である名越(なごし)の父は、いつも残念そうな顔をしていた。……もっとも裁縫や家事の成績は良かったので、母のほうは、それでいいんです、と上機嫌だったが。
 勉強はともかく、女学校にまた通えるのは楽しみだ。
 ただ――女学校に通うということは、昼間ほとんど家を空けるということでもある。この家の嫁でありながら、家事も夫の世話もほったらかしにして、本当に外に出ていいものか、復学が決まったいまでも、迷う気持ちがなくはなかった。
 ……それに、学校に行ってたら、朝晩しか要さんと一緒にいられないし……。
 千鶴は急須の蓋を開けようとしていた手を止めて、うつむいた。
 わかっている。この家の暮らしは、これまでずっと要とセツ、秀二郎の三人で成り立っていた。だから自分が家を空けても、さほど支障はないのだ。それに、もし要が外で働く職業だったら、自分が家にいたところで、朝晩しか一緒にいられないのは同じことである。
 葛藤の本音は、結局、自分が一日中要の近くにいられる、いまのこの生活が嬉しくて――単純に、要の側にいたいという、ただの我儘(わがまま)で。
「……ここにいたのか」
 ふいに背後から聞こえた声に、危うく急須をひっくり返しそうになる。
 振り向くと、要が怪訝(けげん)そうな面持ちで、台所を(のぞ)いていた。
「要さん……」
「おまえ独りか? 秀二とセツは」
「秀二郎さんは集金です。今日は午後から、小石川のほうに。セツさんは、お煎餅(せんべい)持って、さっき多田さんのお宅へ」
「……五時までは帰ってこないな」
 そう言って、要は顔をしかめる。要も、セツが誰かと会えば、決まって長話になることは承知しているのだろう。
「いま二階にお茶をお持ちするところだったんですけど……何か御用でしたか?」
「いや、(かわや)に下りただけだが、やけに静かだから、誰もいないのかと思った」
 それで様子を見にきた、ということのようだ。
 千鶴は、格子窓から外を見た。相変わらず、細い雨が降り続いている。
「雨の日は、特に静かですよね」
「……そうだな」
 要は腕を組み、台所の入口の柱にもたれて、こちらを見ていた。用事があるわけでもない気配なのに、何故か要は二階へ戻ろうとはせず、茶の支度をする自分の一挙一動を、ずっと目で追っている。……何だか落ち着かない。
「あ……あの、お茶、二階に……」
「いや、下で飲む。座敷に持ってきてくれ」
「え。……あ、はい……」
 そう言ったのだから座敷で待っているのかと思いきや、要はそこに突っ立ったまま、まだ視線を外そうとはしない。千鶴はおそるおそる、要の顔をうかがった。
「あの……何、ですか?」
「何がだ」
「いえ、その……何か、ずいぶん、見てらっしゃるので……」
「……ああ」
 要は少し顎を上げ、目を細める。
「おまえの動きの中から、何か絵の構図に使えそうなところはないかと思ってな」
「……あ、絵の……」
 返事を聞いて、千鶴の肩から、すとんと力が抜けた。考えてみれば、絵のためという理由以外で、要がこんなに自分に注目するはずもなかった。
 しかし、絵のためとはいえ、あまり見つめられると緊張してしまう。
「あの、もうお茶淹れましたから……」
「ん。……ああ、わかった」
 うなずいて、要は(きびす)を返し、台所を出ていった。千鶴はようやくほっと息をつき、要と自分の湯呑みを載せた盆を、座敷へ運ぶ。
 要はちゃぶ台の前に座って、千鶴が広げたままにしていた帳面を覗きこんでいた。
「……数学か」
「少しは勉強しておかないといけないと思って……」
「そのわりに、はかどってなさそうだが」
「数学、苦手なんです」
 千鶴が首をすくめると、要は穏やかな表情で、湯呑みを取り上げる。
「……俺も、たいした成績じゃなかった」
「そうなんですか?」
「家で勉強しなかったからな」
 ぽつりと言って、要はゆっくりと茶を口に含んだ。
 学校から帰っても、家にいたくなかったから、家では勉強できなかった――そんなふうに聞こえて、千鶴は黙って微苦笑を浮かべた。
 父親や継母とうまくいっていなかった要も、自分の家に居場所がなかったのだ。だから、東明(しのあき)の家で余所(よそ)者扱いされていた自分の気持ちを、わかってくれたのだろう。
 千鶴は両手で湯呑みを持って、熱い茶を静かに吹き冷ます。要は茶を飲みながら、数学の教科書をぱらぱらとめくっていた。
 ……わたしの家は、ここなのよね。
 自分が女学校に通っていても、この家の生活はこれまでどおり、滞りなくまわるだろう。だからといって、ここに自分の居場所がないということではない。
 要が、名越でも東明でもなく、大津寄千鶴として女学校に行けと言ったのは、どこにいようとも、大津寄要の妻として在れ、という意味だと、考えていいのだという気がする。
 それは、とても幸せなことだ。……そう思う。
 要と一緒にいたい。
 でも、要の妻として女学校に通えるなら、それもまた、素敵ではないか――
 ふと気づくと、教科書を眺めていたはずの要が、自分をじっと見ていた。
「……お茶を飲む女学生の絵でも描くんですか?」
「いや。そういう予定はないが」
「それじゃ、わたしの顔に何かついてるとか……」
「目鼻と口と眉以外は、別に何もついてない」
 ……真顔で言われると、冗談なのか真面目な返事なのか、判断に困る。
 千鶴は首を傾げて、要の様子をうかがった。すると、まだこちらを見ていた要と、目が合ってしまう。
「……」
 雨音でも誤魔化しきれない、奇妙な沈黙が続く。
 睨めっこに負けて、千鶴は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……何か言ってください……」
「何を」
「今度は何で見てるんですか……」
「おまえを見るのに、理由がいるのか」
「へっ?」
 振り向くと、要は湯呑みを片手に、相変わらず平然と、こちらを見つめ続けている。
「見たいから見てるだけだ。気にするな」
「……気になります」
「だったら慣れろ」
 そんな無茶な。
 千鶴は要を視界の隅に入れつつも、目は合わせないように、そろそろと背筋を伸ばした。
「お……お仕事は、いいんですか?」
「今日は終いにする」
「え?」
「いまは、そんなに急ぎの仕事はないからな。たまには休む」
「そっ……そうですか……」
 要が二階へ戻る気配はない。ここにいてくれるのは嬉しいが、少しくらい別のほうを向いてくれないと、こっちは気絶してしまいそうだ。
 千鶴の途惑いを知ってか知らずか、要は湯呑みを置くと、無言で手を伸ばしてきた。
「……」
 いきなり顔に触れられ、びっくりして固まる千鶴をよそに、要は感触を確かめるように、指先で頬を押している。
「な……何してるんですか?」
「……気にするな」
「気になりますってば……」
 もはや半泣き顔になって横目で要を睨むと、さすがに要も、少し決まり悪そうな表情で、手を離した。
「……何となく触りたくなっただけだ」
「何となくって……」
「これぐらいにしておく。……まだ明るいうちだからな」
「……」
 千鶴は思わず、振り返る。目が合うと、今度は要が空咳をして、明後日(あさって)のほうを向いた。わざと仏頂面(ぶっちょうづら)をしているように見えるのは、気のせいだろうか。
 柱時計が三時を告げた。
 だが、二人きりの時間は、もうしばらく続く――

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